マシュマロちゃん
マシュマロちゃんさんの回答
小説において類語に置き換えるのは悪手です。 解像度を上げて類語じゃない言葉に書き換えてください。 それができないなら、ダサいのを気にせずどんどん書くほうがいいです。 たとえば「ひやりとした」の類語に頼ると「肝を冷やした」とかになるでしょう。 だから何だっていうんです。 そうやって類語に置き換えたとしても、「くどくなる」をちょっと回避できる程度の効果しかないはずです。 上手く置き換えたって大して良くなるわけじゃないんです。 だからもっと良くなる道を狙ったほうがいいでしょう。 逆に言えば、そういう風に「また『○○と』か……」と思った際は、加点チャンスなんです。 そういう加点チャンスを細かく拾っていくことが「読ませる文章」の第一歩なので、ぜひ飛びついてほしいと思います。 で、解像度を上げるというのはどういうことか。 それは「ひやりとした」で終わらせないということです。 「ひやりとした」はイディオムでしかなく、要するにただの記号です。 具体的なようでいて、実は全然具体的じゃないんです。 だから「ひやりとしたってどういうこと?」と一歩踏み込んで考えてみてください。 人間は1種類しかなくとも、あなたという実体が固有のものであるように、「ひやりとした」の固有の姿を見つけるのです。 それがどういうものになるかはあなた次第です。 類語なんてありません。 ただ、ざっと思いつくアプローチとしては、描写的、比喩的、直接的の3種類くらいが定番な気がします。 描写的なアプローチなら、 「思わず小さな声を上げてしまった」 のような、「ひやりとした」結果として起こることを描写します。 比喩的なアプローチなら、 「心臓が数秒だけ止まってしまったかのように感じられた」 のような、「ひやりとした」のより具体的な状態を比喩的に表現します。 直接的なアプローチなら、そのまんま「ひやりとした」で表現します。 まさに「ひやりとした」という表現がふさわしいなら、ただの記号じゃなくありのままを描く表現ですから、変える必要なんてないのです。 「くどくなる」という理由だけで「真っ直ぐに表現できる」というチャンスを投げ捨てるなんて、小銭を失うのが怖くて命を絶つような愚行です。 あるいは合わせ技アプローチもいいですね。 くどくなりやすいのですが、一人称なら 「ひやりとした。もしかすると僕の心臓は数秒だけ止まっていたのかもしれない。ふわふわで可愛いひよこをうっかり踏み殺してしまったらこんな風に動揺するだろうか。いや、そこまでじゃない。うっかり踏みそうになる程度だ」 くらいやりすぎちゃってもありかと思います。 それに、ここまでやったら「○○とした」より濃い表現がバカスカ出てくるので、そもそも読者は「『○○とした』ばかり使ってんな〜」とは思わないでしょうね。 とまぁマシュマロちゃんがくどくど書いてしまいましたね。 とにかく「類語置き換えは悪手! 解像度を高めるか、無視してさっさと続き書け!」を覚えてください。
マシュマロちゃん
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