お誕生日おめでとうございます!生活をしたりお仕事や創作の制作を続けながら生きてくださってありがとうございます。
先日、『Solarfault, 空は晴れて』を拝読しました。はじめは青汁、きれいでおいしそう!だったのですが、いまは現象を現象のまま、知覚したままに素描のように文章にすることや、反対(反対?)に文章にされる対象について考えています。
書き手(森澤さん)の奥の書き手(山川さん)に誘発され起き上がる書き手(創作者としての私自身、もしくは読者の内心)、の書いた小説を読む書き手を……どんどんと、内側から見るマトリョーシカのように夢想して(読者のことや、読み手と読み手、といった読書の嗜好の似通りは、自分自身には通奏低音的な無意識があり、今回も読み手の変容についても考えさせられました。しかし)これは初めての感覚でした。
日々口にする日常の言葉。媒体としての自分をして、そういった感情や意見をできる限り(完全にではなく)排した記述の試みをし始めているのはなぜだろう? なにを考えてそうしているか誠実な言葉にできるのか? 刑罰に値する罪というものではないはずだけれど後ろめたい、悪いことではないと開き直っている、一度現実にリアルとして表現したものが自分から離れて自生してゆく、内容と剥離した物語が並走している、ことになった、読んだから。という、なんだか不思議な感覚を得ました。誰の言葉だったか、どこでも空は青いというようなことばを思い出しました。
青、青いといえば大規模SNSのロゴマークも青く、常に新しい真偽の明らかでない細切りの物語が注がれています。一滴、一滴。
物語との付き合い方、嘘のつき方、現実と交互に希釈する人物への謝り方を考えました。謝り方、ということはやっぱり双方に悪いことをしている気がするのかもしれません。でも本作のテーマを読んだ上で、そう思おうとしているのかも。読んでいる途中で、「なにかが影響されてゆく私を許してくれるのかな」となにかに対して思いました。なにかだらけですね。なにかにしたいので、この点はご容赦ください。
(続きます)